中国と縁の深かった高倉健さん
2014/11/20

 日本映画界の中心スターとして活躍した俳優で文化勲章受章者、高倉健さんが10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去した。同ニュースが18日に明らかになると、中国のネットユーザーからは、「日本に対しては反感を抱いているが、高倉さんは、私の好きな数少ない日本の実力派俳優の一人。お悔やみ申し上げる」などの声が寄せられた。同メッセージは、中国の映画ファンの心の声を代表している。日本という国に対してはさまざまな見方がある中国で、多くの人に愛された高倉さん。その人気の秘訣は、男らしい外見だけでなく、卓越した演技と、中国に対する誠実な思いだった。

「君よ憤怒の河を渉れ」で中国人の心を鷲掴み

 1978年、文化大革命(1966-76年)後の中国で初めて公開された外国映画が高倉さん主演の「君よ憤怒の河を渉れ」だった。同映画は、中国でも爆発的大ヒットとなり、高倉さんは一躍大スターとなった。

 当時、数年前まで文化大革命の嵐がふき荒れていたため、多くの中国人が精神的に「ホッとしたい」という思いでいっぱいだった。同映画で、高倉さんは、寡黙で男らしい検事・杜丘冬人を演じ、若者の間であこがれの的となった。当時、紡績工場で働いていたという、中国の巨匠・張芸謀(チャン・イーモウ)監督も、杜丘を見て、シャツの襟を立て、口数を減らすなど、真似をしていたという。張監督はその後、工場を辞めて、北京電影(映画)学院に入学した。

 高倉さんは、中国の男性映画スターのイメージにも大きな影響を与えた。1970年代、中国のテレビや映画で人気となったのは、色白の若い俳優だった。「君よ憤怒の河を渉れ」で高倉さんが演じた寡黙で毅然とした杜丘が、中国の映画に変化をもたらし、「もてる男性」のイメージも確立したのだ。

「単騎、千里を走る」で本当の中国に出会う

 1980年代、日本人である高倉さんが、中国において「オシャレな男性の象徴」となり、同年代を経験した人の脳裏には、そのイメージが鮮明に刻まれている。21世紀に入り、高倉さんの影響を大きく受けて映画界に入った張芸謀監督のラブコールで、2人のコラボが実現。日中合作映画「単騎、千里を走る(中国語題:千里走単騎)」 (2005年)が製作された。同映画で、高倉さんは、中国の一般人の生活に溶け込み、本当の中国を知ることになった。

 同映画の撮影を通し実際の中国に出会った高倉さんについて、「NHKスペシャル 高倉健が出会った中国」(2005)を製作したNHK報道局ディレクター・大鐘良一さんは、「高倉さんは、中国語をずっと一生懸命勉強していた。そして、各シーンの撮影が終わるたびに、スタッフに中国語で『お疲れ様』と言っていた。そのうち、言葉にしなくても、周囲の人に気持ちが伝わるようになった。心と心の交流を感じた」と振り返る。

 高倉さんは、「戦後60年の間に、僕を含めた日本人が大切なものを忘れてしまったと、深く感じた。中国のスタッフが僕に教えてくれたものは、日本人がとっくに忘れてしまった大切なものだった」と語っている。

中国のさまざまな顔を見た高倉さん

 80歳になった高倉さんは11年、日本人の親友の招きを受け、再び中国を訪問し、ファンとの交流を楽しんだ。

 「単騎、千里を走る」以降、高倉さんが主演を務めた映画は「あなたへ」 (12年)だけで、同映画が最後の主演作品となった。そのため、中国では高倉さんの健康状態を心配する声が絶えなかった。しかし、11年に中国を訪問した時には、50過ぎにしか見えない、元気な姿を見せてくれていた。

 「君よ憤怒の河を渉れ」が中国で大ヒットし、大人気となった時、「単騎、千里を走る」の舞台となった雲南省の束河村が地震の被害に遭い、その後、手紙と共にヒマワリの種を送った時、その村の人が、荒地にその種を植えて花畑を作った時、親友の招きで中国を訪問し、ファンと交流した時、死去のニュースにネットユーザーが悲しみに暮れた時、高倉さんはさまざまな中国の顔を見ることとなった。中国が高倉さんに出会い、高倉さんも本当の中国に出会った。このように、中国と高倉さんは深い関係を築いてきた。

「人民網日本語版」2014年11月19日

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